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作庭家 小堀遠州 その②
金地院庭園は、二条城二の丸庭園とは大きく構成が異なり、池はなく方丈の眼前には白砂が広がりほどなくして一石の礼拝石(らいはいせき)が据えられる。この礼拝石は徳川家康を祀る高台に建てられた東照宮を拝むためのものであり、礼拝石をはさみ対の形で伏石と立石で象徴された亀島、鶴島を確認することができる。金地院といえばこの鶴島、亀島といっても過言ではない。
遠州はこの庭を作庭するにあたり金地院崇伝に指図【図①】を送り実際の施工には、後に賢庭(けんてい)と名乗る庭師が施工に当たった。この賢庭という名は後陽成天皇より「天下第一の名手」と称賛され賜った名前であり、造園史上において実際の施工者である庭師の名が記録されたことは稀有である。これはあくまで個人の想像に過ぎないが、遠州の描いた指図に従うばかりか、空間を読み取り、意図を組み、そこに自身の考えを反映する造園を行うことができる庭師であったではないだろうか。
【図①】金地院庭園造営時の指図
金地院庭園には至るところに「遠州好み」とされる設えが施されているが、特に目を惹くのは方丈から円弧を描いて開山堂に続く切石の飛石である。いかにも「きれいサビ」と称えられる遠州らしい配石であるが、そもそも度々耳にする「わび・さび」という語の「サビ」とは、「寂しい」が語源だと考えられており、「幽玄」という意味合いを持つことから、能や句の世界においては最高位の表現だとされている。
一方、「わび」は万葉集では「和備」と記されており8世紀には使用されていたことが確認できる。さらに『徒然草』には「徒然和夫る人は…」とあり、「暇をなげく人」と捉えることができる。つまり「わび」の語源は迷っている人のことであり、原則的には否定的な言葉であると考えられ、それを唯一肯定的に捉えたのが茶の湯の世界であった。こうした「わび・さび」という感覚をもって草庵茶を確立した村田珠光は「冷え枯れ」「冷えサビ」と連歌の世界観と美意識をもって草庵茶を創造していった。村田珠光、武野紹鷗、千利休、古田織部と繋がれた草庵茶は、遠州によって「きれいサビ」という武家らしいエッセンスを加えられ江戸期の茶の湯の隆盛に繋がっていく。
最後に学術的な裏付けは明確になっていないが、遠州が晩年になりようやく自身の好みのまま設計するに至ったと伝わる孤蓬庵を見てみる。現存する建物は1793年に火災で焼失したため松江藩主であった松平不昧公(まつだいらふまい)が古図を用いて再建したと伝わり、この際の再建度合いがどこまで忠実であったかが明確になっていない。
孤蓬庵のなかでも最も有名なのが「忘筌」(ぼうせん)【図②】と呼ばれる茶室であり、縁から落ち縁を経て庭に続き、ウチとソトの空間の隔たりと重なりを上方の中敷居(明り障子)で絶妙に区切っている。
その先の露地庭には三国灯籠が一基据えられ、背後には遠州作を象徴する言われる富士型石が顔を覗かせる。三国灯籠とは、傘が朝鮮、火袋が中国、竿が天竺(インド)に由来を持つとされることからこのように呼ばれる。茶室の空間は書院座敷でありながら、露地に草庵の要素を組み込み、甲乙丙であれば甲と乙の中間、またはその両方の要素を取り込むを「遠州好み」と理解できるほどである。
【図②】「忘筌」の模写 三国灯籠と富士型石
孤蓬庵を直接見た個人的な感覚では「遠州好み」を基礎に「不昧公好み」が入り組んでいるような印象を受ける。残念ながら常時公開はしていないため、不定期の公開になることから機会があれば必ず訪れることをお勧めする。