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社長コラム 2023.11.16

作庭家 その②小川治兵衛

静岡新聞社オトナインターンシップ

重森三玲氏に続く作庭家として挙げるべきは七代目小川治兵衛、通称「植治」だろう。近代ばかりか日本の造園史上、もっとも著名な作庭家と言っても過言ではない。少なくとも造園を志す者たちにとってはカリスマ的な存在である。

重森三玲氏が個人住宅や東福寺の塔頭群などの寺院を中心に作庭を行っていたのに対し、植治の主戦場はもっぱら近代に活躍をした公爵などが所有する庭園や円山公園を初めとする公共的な場所であった。同じ近代の作庭家でありながら、その作庭方法も表現の仕方も大きく異なる。

重森氏が造形的な作庭を行ったのに対し、植治の作庭はあくまでも自然主義的なものであり、施主である近代思想家たちの持つ「自然観」を庭で見事に表現してみせた。

重森氏の庭における表現方法は、日本的な紋様と巨石を用いた立石組、そして禅などの信仰を基盤に意味づけられた作庭であり、庭を志す者のみならず万人に対して非常に分かりやすく、庭への興味を増幅させる。

一方、植治の仕事の繊細さというのは、ある程度、造園に対する造詣が深くならないと本質的な良さを感じることは難しいと感じる。云わば玄人好みの作庭である。言うまでもなくどちらも素晴らしい作庭家であるので、敢えて両者を比較する必要はないが、造園を生業とする者ならば、やはり施主の意向を汲みながら、自身の考えを上手に組み込み、さらにそこで存分に持てる技術を発揮する植治に惹かれていく。

日本庭園の歴史を振り返ってみると、間違いなく隆盛を見たのは大名庭園や露地、寺社仏閣などの多くの庭園が造られた江戸時代であったが、奇しくも後期になると灯籠、飛石など露地から発展した庭園資材を用い、池を景の中心に据えるという定型化がなされ、突出した庭が見られなくなった。庭園にこれらの要素があれば日本庭園だという風潮は現代においても残っているように見える。

七代目小川治兵衛が庭園にもたらしたものは少なくないが、もっとも大きな変革はこの定型化を打ち破ったことにある。植治はそれまで池が中心であった中規模から大規模な庭園において、「流れ」つまり「川」を景の中心に据えた。そこを渡るために据えられた沢飛石とそこから除く流れの元に据えられた滝石組は、まるで植治を証明するかのようである。その代表格は何といっても山縣有朋の別荘、京都の東山に位置する「無鄰菴」【写①】であり、そこで山縣有朋に見い出された植治は琵琶湖疎水によって京都にもたらされた水源を巧みに利用して次々に作庭を行っていく。

【写①】「流れ」を景の主役とした無鄰菴庭園

その後、植治の手掛けた庭園は、「平安神宮西神苑」【写②】、「京都国立博物館」、「京都府庁舎」、「都ホテル(現・ウエスティン都ホテル京都)」、「對龍山荘」(所有:市田弥一郎 ※原則非公開)、「何有荘」(所有:稲畑勝太郎 ※原則非公開)、慶沢園【写真③④】(所有:住友春翠)、「清風荘」(所有:西園寺公望 現・京都大学所有 ※原則非公開)、「円山公園」、「碧雲荘」(所有:野村徳七 ※原則非公開)など数えきれないほどあり、生涯にわたり多忙を極めたと見られる。

【写②】平安神宮の沢飛石

【写③】慶沢園の滝石組

【写④】慶沢園

植治が山縣有朋に見い出されることになった「無鄰菴」の庭園を手掛けたのは34歳の時であったが、その年齢であれほどの庭園を造ったことを考えると、とんでもない造園の傑物であり、嫉妬心すら湧かない。しかも、七代目小川治兵衛の名を継承した植治の人生を振り返ってみると、彼は小川家に17歳のとき婿養子として迎えられており、もともと代々の植木屋家系の生まれではない。とてつもないセンスを持ち合わせていたことに違いはないだろうが、合わせて造園に対して自問自答を繰り返し、さらには想像を絶するような研鑽を重ねたことであろう。

資料を見るかぎり、「無鄰菴」よりも以前の彼の作庭として現存しているのは、「並河靖之邸」【写⑤~⑧】(現・並河靖之七宝記念館)が唯一であるが、そこでは「自分の腕を試したい」、「あれもこれもやりたい」といった造園傑物、七代目植治の人間味を感じることができる。

【写⑤】並河記念館の前栽

【写⑥】並河記念の書院から見た池

【写⑦】並河記念館の庭園

【写⑧】並河記念館の手水

並河家と小川家は隣人同士であったことから作庭の依頼を受けたとみられるが、当主であった並河靖之も植治と同じく婿として並河家に迎えられており、もしかすると靖之は植治の姿に自身の若かれし頃を重ねていたのかも知れないと思うとまた感慨深いものがある。

「無鄰菴」や「清風荘」などの「引き算の庭」は、造園家として目指すべき高みであるが、「並河七宝記念館」のように「足し算の庭」も、個人的にはとても好きな庭である。